こちらでは、フランス共和国の世界遺産についてご紹介しています。ヨーロッパで最も有名な国家の1つであるフランスの文化遺産・自然遺産をめぐるための基礎知識としてお役に立ったなら幸いです。
トップページでは、フランスの世界遺産を個別に見ていく前に、フランスという国に対する理解を深めるためのエピソードをご紹介しています。
◎フランスの歴史にまつわるエピソード
〜英雄ナポレオンの栄光と転
トップページでは、フランスの世界遺産を個別に見ていく前に、フランスという国に対する理解を深めるためのエピソードをご紹介しています。
◎フランスの歴史にまつわるエピソード
〜英雄ナポレオンの栄光と転
こちらでは、フランス共和国の世界遺産についてご紹介しています。ヨーロッパで最も有名な国家の1つであるフランスの文化遺産・自然遺産をめぐるための基礎知識としてお役に立ったなら幸いです。
トップページでは、フランスの世界遺産を個別に見ていく前に、フランスという国に対する理解を深めるためのエピソードをご紹介しています。
◎フランスの歴史にまつわるエピソード
〜英雄ナポレオンの栄光と転落
フランス革命と並んで、フランスの歴史を語る上で外せない存在。それは間違いなく、英雄として名高いナポレオン・ボナパルトでしょう。
ただ、日本におけるナポレオンのイメージというと「フランスの皇帝」「戦争に強かった」「辞書に不可能という言葉がないらしい」ぐらいしか出てこないのが実情なのではないでしょうか。ナポレオンが何を成し遂げ、そして何を失ったのかを詳細に知っている方は少ないのが現状だと思います。
そこで、こちらではナポレオンの栄光と転落に焦点を当てて、その人物像を浮き彫りにしていきたいと考えました。フランスという国の歴史に対する理解を深めるためのきっかけになれば幸いです。
後に皇帝になったとはいえ、ナポレオンは王家の出身ではありません。フランス本土ではなくコルシカ島という離島出身の軍人でした。
この頃は、フランス革命におけるロベスピエールの恐怖政治が終わりを告げ、強い権力を持たない総裁政府による統治が行われている時代です。恐怖政治に陥る可能性がない一方で、他国からの干渉を封じるだけの力があるかどうかを疑問視された、非常に緩やかな政府でした。
当時のヨーロッパでは、国王を処刑するほどの過激さを持ったフランス革命が波及するのを恐れて、フランスに厳しい視線を送る国々――イギリス・オーストリアなどが第1回対仏大同盟を組んでいる状況。総裁政府の指導力では、フランスを守りきれるかどうか非常に不安な情勢です。
ナポレオン・ボナパルトという時代の寵児が歴史の表舞台に現れたのは、まさにこの時代でした。「弱い総裁政府ならば勝機がある」とばかりに、絶対王政復活を狙う王党派が起こした武力蜂起――ヴァンデミエールの反乱を鎮圧したことが、最初の武勲として記録に残っています。
その後、ナポレオンはイタリア半島へと遠征を行い、ロディ・アルコレの戦いにオーストリアを撃破。第1回対仏大同盟を瓦解に追い込みました。これにより、フランス共和国の命脈が保たれたことになるわけですね。
しかしながら、アブキール湾の海戦では宿敵ネルソン提督の率いるイギリス海軍に敗北しており、結局はイギリス・ロシアによる第2回対仏大同盟締結を許してしまいます。このため「いつ何時、何ヶ国もを相手とする戦争になるか分からない」という危機感から解放されることはありませんでした。総裁政府の指導力は相変わらずですから、自然とフランス国民の期待はナポレオンへと集まります。ネルソンに敗れたとはいえ、やはりオーストリアを破った功績を考えれば「この時のフランスで最も高い指導力を持つ人物」は間違いなくナポレオンだったからでしょう。
野心家であるナポレオンも、この期待に応えました。彼はブリュメール18日のクーデターで総裁政府を倒し、自ら第一統領に就任――統領政府を打ち立てて独裁権力を手に入れたのです。この時点では、あくまでも共和国の統領でしたから、フランスは共和政ということになっていました。
権力を手にしたナポレオンは、再びイタリア半島へ侵攻してオーストリアと交戦。マレンゴの戦いでオーストリアを撃破し、フランスに有利な条件でリュネヴィルの和約を締結します。さらにナポレオンは、孤立したイギリスとアミアンの和約で妥協を成立させ、ここに第2回対仏大同盟は崩壊したのです。結果として、ナポレオンは「見事に国民の期待に応えた」といえるでしょう。
この後、ナポレオンはフランス国内の内政に注力します。まずは、フランス革命時代に教会財産を没収したことからフランスとの関係が険悪になっていたローマ教皇と和解――カトリック信仰を認め、国内の宗教的対立を改善させました。さらにフランス銀行を創設して経済活動を円滑にし、フランス民法典という民法を制定。このフランス民法典は、別名でナポレオン法典とも呼ばれ「契約の自由」「法の下の平等」「私有財産の不可侵」を明記した画期的な法典です。
たぐいまれな政治手腕で国内情勢を安定させたナポレオンへの支持は爆発的なものとなりました。こうした状況の中、国民投票の賛成多数によってナポレオンは皇帝へと即位したのです。
もちろん、血統を無視したナポレオンの皇帝即位に対して、ヨーロッパ諸国は大きく反発しています。イギリス・オーストリア・ロシアを中心に第3回対仏大同盟が結成され、戦争は不可避な情勢へと移行しました。
ですが、絶頂期のナポレオンはオーストリア・ロシアの2国を向こうに回しても見事なまでの圧勝を飾ったのでした。現在のチェコを戦場としたこの戦いは、フランス皇帝ナポレオンvsオーストリア皇帝:フランツ1世&ロシア皇帝アレクサンドル1世という形で行われたことから、アウステルリッツの三帝会戦と呼ばれています。
ただ、同時期に発生した対イギリスの戦争――トラファルガーの海戦では、またもネルソン提督の前に敗北。このあたりから「ナポレオンは海戦に弱い」という事実が浮かび上がってきますね
アウステルリッツの三帝会戦に圧勝したナポレオンは、南西ドイツに領土を持つ諸侯にライン同盟という連合を組織させることでオーストリア・プロイセンの封じ込めを狙いました。その後、プロイセンとロシアがナポレオンに戦いを挑みますが、ナポレオンはこれを一蹴。イエナの戦いでプロイセン軍を、アウエルシュタットの戦いでプロイセン・ロシア連合軍に勝利して、東ヨーロッパ方面への影響力を強めました。プロイセン領の大部分は奪われ、ナポレオンの傀儡政権としてウェストファリア王国・ワルシャワ大公国が成立しています。
この頃から、ナポレオンは英雄としてよりも、征服者・皇帝としてのイメージが強くなっていきます。ヨーロッパ各地を征服しては、征服地の国王(ほぼ傀儡政権)として自分の兄弟を送り込みました。これでは、過去の絶対君主とほとんど変わりません。さらに、子どもの出来なかった妻:ジョゼフィーヌと離婚して別の相手と政略結婚。これは、帝位を継がせる子どもが必要だったことが理由です。
こうして、ナポレオンはフランス革命に逆行するような行いを繰り返すようになっていきました。この頃、スペインでナポレオン支配から脱却するための反乱が起きているのですが、ナポレオンは民衆を無差別に処刑するという方法で押さえ込みを図っています。時ここに至って、ナポレオンは完全に英雄としての資質を失ったといえるでしょう。
大陸の多くがフランスの手に落ち、残るはイギリスだけです。ナポレオンは大陸封鎖令を発令して、イギリスとの貿易を禁じました。要するに「経済的に打撃を与えてイギリスを弱らせる」という作戦に出たわけです。工業国であるイギリスは貿易をしなければ必要な穀物さえまかなえません。これは、ほとんど兵糧攻めと言っても過言ではないほどの大きな打撃になり得たんですね。
しかし、未だナポレオンの手に落ちていないロシアは、この大陸封鎖令に従いませんでした。イギリスへの穀物輸出を継続し、あくまでナポレオンへの従属を拒否したのです。
怒ったナポレオンは、ロシアへの遠征を決行。単に屈服させるだけではなく、ロシア全土を制圧する構えで攻め込んだのでした。フランス軍は連戦連勝――都であるサンクトペテルブルグを制圧し、当時は第2の都市だったモスクワさえも陥落させてしまいます。
しかし、ロシアの将軍:クツーゾフは画期的な作戦に打って出ます。その作戦とは、焦土作戦――。ロシア軍が敗北して後退する際に「付近の都市をすべて焼き払ってから撤退する」という一見して意図不明(下手すると自暴自棄になったように見える)の不思議な作戦ですが、これには大きな意味があります。ロシアは東西に広く、簡単には全土を制圧できません。そのため、フランス軍は武器弾薬・食料といった物資を現地調達しなければ進軍を続けられないはず。クツーゾフ将軍はそこに目をつけて、全てを焼き払って後退し続けることでフランス軍を物資不足に追い込んでいったというわけです。こうして、勝っても勝っても戦利品が手に入らないフランス軍は、国土の半分を制圧したあたりで完全に立ち往生――。ナポレオンが送り込んだ大遠征軍は、最終的に50万人もの死者を出して壊滅したのでした。
これを皮切りに、各地で反ナポレオンの狼煙が上がります。フランスの領土は瞬く間に縮小して、最後はロシア・プロイセン・オーストリア連合軍に攻め込まれたのでした。こうして勃発したライプツィヒの戦いで、フランス軍は惨敗――。あっさりとパリは陥落しました。
結局、ナポレオンはエルバ島に流刑。ようやくナポレオン時代が終わり、各国はウィーン会議を開催して戦後処理の相談を始めました。
……しかし、各国代表は自国の利益ばかりを主張して、会議は一向に進みません。話はまるで進まないわりに、毎晩の舞踏会ばかり盛り上がっている始末で“会議は踊る、されど進まず”などという揶揄が流行したほどです。占領されたフランスでは、各国の都合に振り回されて何1つ進展しない状況に停滞感が広がっていました。
この状況を知ったナポレオンは、なんとエルバ島を脱出。パリに戻って再び皇帝へと返り咲きます。停滞した現状にうんざりしていたフランス国民はナポレオンを支持し、状況は全く元通りになってしったのでした。
ウィーン会議に参加していた各国は、ナポレオンの復活という危機に直面して初めて団結――対ナポレオン戦争へと突入しました。
ただ、皇帝に返り咲いたとはいえ、今のナポレオン軍に往年の力はありません。領土もフランス1国のみ。ワーテルローの戦いで、フランスはイギリス中心の連合軍に大敗しています。
捕まったナポレオンは、大西洋に浮かぶ孤島――セント=ヘレナ島に流刑。近海のエルバ島と違って、とても戻ってこられるような位置ではありません。こうして、今度こそ、ナポレオンの天下は完全に終わりました。
僅かな世話人と共にセント=ヘレナ島で暮らし始めたナポレオン・ボナパルトは、疲れきった表情でこう語ったそうです。
「かつて私の辞書に不可能という文字はなかった。しかし、この島を出て再び日の目を見ることは、もはや不可能であろう……」
ナポレオンはそのまま、セント=ヘレナ島で残りの人生を過ごすことになりました。そして、病に冒されて生涯を終える時、断片的に4つの言葉を残したと言われています。
「フランス――テート(先頭)――アルメ(兵士)――ジョゼフィーヌ――」
以上、フランスの歴史に関連したエピソードでした。移行のページでは、実際に個々の世界遺産を見ていきたいと思います。
※当ページで使用している画像はwikipediaからの引用です。
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◎フランスの歴史にまつわるエピソード
〜英雄ナポレオンの栄光と転落
フランス革命と並んで、フランスの歴史を語る上で外せない存在。それは間違いなく、英雄として名高いナポレオン・ボナパルトでしょう。
ただ、日本におけるナポレオンのイメージというと「フランスの皇帝」「戦争に強かった」「辞書に不可能という言葉がないらしい」ぐらいしか出てこないのが実情なのではないでしょうか。ナポレオンが何を成し遂げ、そして何を失ったのかを詳細に知っている方は少ないのが現状だと思います。
そこで、こちらではナポレオンの栄光と転落に焦点を当てて、その人物像を浮き彫りにしていきたいと考えました。フランスという国の歴史に対する理解を深めるためのきっかけになれば幸いです。
後に皇帝になったとはいえ、ナポレオンは王家の出身ではありません。フランス本土ではなくコルシカ島という離島出身の軍人でした。
この頃は、フランス革命におけるロベスピエールの恐怖政治が終わりを告げ、強い権力を持たない総裁政府による統治が行われている時代です。恐怖政治に陥る可能性がない一方で、他国からの干渉を封じるだけの力があるかどうかを疑問視された、非常に緩やかな政府でした。
当時のヨーロッパでは、国王を処刑するほどの過激さを持ったフランス革命が波及するのを恐れて、フランスに厳しい視線を送る国々――イギリス・オーストリアなどが第1回対仏大同盟を組んでいる状況。総裁政府の指導力では、フランスを守りきれるかどうか非常に不安な情勢です。
ナポレオン・ボナパルトという時代の寵児が歴史の表舞台に現れたのは、まさにこの時代でした。「弱い総裁政府ならば勝機がある」とばかりに、絶対王政復活を狙う王党派が起こした武力蜂起――ヴァンデミエールの反乱を鎮圧したことが、最初の武勲として記録に残っています。
その後、ナポレオンはイタリア半島へと遠征を行い、ロディ・アルコレの戦いにオーストリアを撃破。第1回対仏大同盟を瓦解に追い込みました。これにより、フランス共和国の命脈が保たれたことになるわけですね。
しかしながら、アブキール湾の海戦では宿敵ネルソン提督の率いるイギリス海軍に敗北しており、結局はイギリス・ロシアによる第2回対仏大同盟締結を許してしまいます。このため「いつ何時、何ヶ国もを相手とする戦争になるか分からない」という危機感から解放されることはありませんでした。総裁政府の指導力は相変わらずですから、自然とフランス国民の期待はナポレオンへと集まります。ネルソンに敗れたとはいえ、やはりオーストリアを破った功績を考えれば「この時のフランスで最も高い指導力を持つ人物」は間違いなくナポレオンだったからでしょう。
野心家であるナポレオンも、この期待に応えました。彼はブリュメール18日のクーデターで総裁政府を倒し、自ら第一統領に就任――統領政府を打ち立てて独裁権力を手に入れたのです。この時点では、あくまでも共和国の統領でしたから、フランスは共和政ということになっていました。
権力を手にしたナポレオンは、再びイタリア半島へ侵攻してオーストリアと交戦。マレンゴの戦いでオーストリアを撃破し、フランスに有利な条件でリュネヴィルの和約を締結します。さらにナポレオンは、孤立したイギリスとアミアンの和約で妥協を成立させ、ここに第2回対仏大同盟は崩壊したのです。結果として、ナポレオンは「見事に国民の期待に応えた」といえるでしょう。
この後、ナポレオンはフランス国内の内政に注力します。まずは、フランス革命時代に教会財産を没収したことからフランスとの関係が険悪になっていたローマ教皇と和解――カトリック信仰を認め、国内の宗教的対立を改善させました。さらにフランス銀行を創設して経済活動を円滑にし、フランス民法典という民法を制定。このフランス民法典は、別名でナポレオン法典とも呼ばれ「契約の自由」「法の下の平等」「私有財産の不可侵」を明記した画期的な法典です。
たぐいまれな政治手腕で国内情勢を安定させたナポレオンへの支持は爆発的なものとなりました。こうした状況の中、国民投票の賛成多数によってナポレオンは皇帝へと即位したのです。
もちろん、血統を無視したナポレオンの皇帝即位に対して、ヨーロッパ諸国は大きく反発しています。イギリス・オーストリア・ロシアを中心に第3回対仏大同盟が結成され、戦争は不可避な情勢へと移行しました。
ですが、絶頂期のナポレオンはオーストリア・ロシアの2国を向こうに回しても見事なまでの圧勝を飾ったのでした。現在のチェコを戦場としたこの戦いは、フランス皇帝ナポレオンvsオーストリア皇帝:フランツ1世&ロシア皇帝アレクサンドル1世という形で行われたことから、アウステルリッツの三帝会戦と呼ばれています。
ただ、同時期に発生した対イギリスの戦争――トラファルガーの海戦では、またもネルソン提督の前に敗北。このあたりから「ナポレオンは海戦に弱い」という事実が浮かび上がってきますね
アウステルリッツの三帝会戦に圧勝したナポレオンは、南西ドイツに領土を持つ諸侯にライン同盟という連合を組織させることでオーストリア・プロイセンの封じ込めを狙いました。その後、プロイセンとロシアがナポレオンに戦いを挑みますが、ナポレオンはこれを一蹴。イエナの戦いでプロイセン軍を、アウエルシュタットの戦いでプロイセン・ロシア連合軍に勝利して、東ヨーロッパ方面への影響力を強めました。プロイセン領の大部分は奪われ、ナポレオンの傀儡政権としてウェストファリア王国・ワルシャワ大公国が成立しています。
この頃から、ナポレオンは英雄としてよりも、征服者・皇帝としてのイメージが強くなっていきます。ヨーロッパ各地を征服しては、征服地の国王(ほぼ傀儡政権)として自分の兄弟を送り込みました。これでは、過去の絶対君主とほとんど変わりません。さらに、子どもの出来なかった妻:ジョゼフィーヌと離婚して別の相手と政略結婚。これは、帝位を継がせる子どもが必要だったことが理由です。
こうして、ナポレオンはフランス革命に逆行するような行いを繰り返すようになっていきました。この頃、スペインでナポレオン支配から脱却するための反乱が起きているのですが、ナポレオンは民衆を無差別に処刑するという方法で押さえ込みを図っています。時ここに至って、ナポレオンは完全に英雄としての資質を失ったといえるでしょう。
大陸の多くがフランスの手に落ち、残るはイギリスだけです。ナポレオンは大陸封鎖令を発令して、イギリスとの貿易を禁じました。要するに「経済的に打撃を与えてイギリスを弱らせる」という作戦に出たわけです。工業国であるイギリスは貿易をしなければ必要な穀物さえまかなえません。これは、ほとんど兵糧攻めと言っても過言ではないほどの大きな打撃になり得たんですね。
しかし、未だナポレオンの手に落ちていないロシアは、この大陸封鎖令に従いませんでした。イギリスへの穀物輸出を継続し、あくまでナポレオンへの従属を拒否したのです。
怒ったナポレオンは、ロシアへの遠征を決行。単に屈服させるだけではなく、ロシア全土を制圧する構えで攻め込んだのでした。フランス軍は連戦連勝――都であるサンクトペテルブルグを制圧し、当時は第2の都市だったモスクワさえも陥落させてしまいます。
しかし、ロシアの将軍:クツーゾフは画期的な作戦に打って出ます。その作戦とは、焦土作戦――。ロシア軍が敗北して後退する際に「付近の都市をすべて焼き払ってから撤退する」という一見して意図不明(下手すると自暴自棄になったように見える)の不思議な作戦ですが、これには大きな意味があります。ロシアは東西に広く、簡単には全土を制圧できません。そのため、フランス軍は武器弾薬・食料といった物資を現地調達しなければ進軍を続けられないはず。クツーゾフ将軍はそこに目をつけて、全てを焼き払って後退し続けることでフランス軍を物資不足に追い込んでいったというわけです。こうして、勝っても勝っても戦利品が手に入らないフランス軍は、国土の半分を制圧したあたりで完全に立ち往生――。ナポレオンが送り込んだ大遠征軍は、最終的に50万人もの死者を出して壊滅したのでした。
これを皮切りに、各地で反ナポレオンの狼煙が上がります。フランスの領土は瞬く間に縮小して、最後はロシア・プロイセン・オーストリア連合軍に攻め込まれたのでした。こうして勃発したライプツィヒの戦いで、フランス軍は惨敗――。あっさりとパリは陥落しました。
結局、ナポレオンはエルバ島に流刑。ようやくナポレオン時代が終わり、各国はウィーン会議を開催して戦後処理の相談を始めました。
……しかし、各国代表は自国の利益ばかりを主張して、会議は一向に進みません。話はまるで進まないわりに、毎晩の舞踏会ばかり盛り上がっている始末で“会議は踊る、されど進まず”などという揶揄が流行したほどです。占領されたフランスでは、各国の都合に振り回されて何1つ進展しない状況に停滞感が広がっていました。
この状況を知ったナポレオンは、なんとエルバ島を脱出。パリに戻って再び皇帝へと返り咲きます。停滞した現状にうんざりしていたフランス国民はナポレオンを支持し、状況は全く元通りになってしったのでした。
ウィーン会議に参加していた各国は、ナポレオンの復活という危機に直面して初めて団結――対ナポレオン戦争へと突入しました。
ただ、皇帝に返り咲いたとはいえ、今のナポレオン軍に往年の力はありません。領土もフランス1国のみ。ワーテルローの戦いで、フランスはイギリス中心の連合軍に大敗しています。
捕まったナポレオンは、大西洋に浮かぶ孤島――セント=ヘレナ島に流刑。近海のエルバ島と違って、とても戻ってこられるような位置ではありません。こうして、今度こそ、ナポレオンの天下は完全に終わりました。
僅かな世話人と共にセント=ヘレナ島で暮らし始めたナポレオン・ボナパルトは、疲れきった表情でこう語ったそうです。
「かつて私の辞書に不可能という文字はなかった。しかし、この島を出て再び日の目を見ることは、もはや不可能であろう……」
ナポレオンはそのまま、セント=ヘレナ島で残りの人生を過ごすことになりました。そして、病に冒されて生涯を終える時、断片的に4つの言葉を残したと言われています。
「フランス――テート(先頭)――アルメ(兵士)――ジョゼフィーヌ――」
以上、フランスの歴史に関連したエピソードでした。移行のページでは、実際に個々の世界遺産を見ていきたいと思います。
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